昭和43年4月18日 月次祭

                     中村良一

 おかげを頂きまして、私の糖尿病も、大変ひどかったんですけれども、御大祭の前の十五日の日が峠だったと思います。夜中に、文雄先生が、危ないところで、お医者さんを呼ぶところでした。本当にあの、大変ひどい事ですね、人間の、この身体の中から、必要である物が、胎内にあるものが出てしまう。いわゆる、糖が出てしまうんですね。そして、全然、糖を取らないものですから、体が、非常にきついんです。けれども、本当にあの、いわば、大祭が、前の十五日の日が峠でございました。今日、高橋さんから、また、尿の検査をして頂きました。そしたら、おかげを頂いて、今までも、何回調べましても、それこそ、このままで行くなら、こりゃ、どうでも一つ、もっと食事を厳しくしなければいけないというところまで、行っておりましたんですけれども。今日、調べて頂きましたら、一番悪い糖が出ておったのが、その次の糖が出るように、一段、おかげを頂いておる訳です。そういう大祭からこっち、私が、寝るとも寝ませんし、それから、疲れも致しません。たった、ちょっとの事で、そんなに違うんですね。まことにその有難い。私は、それは、難あって喜べ、難は御影と仰るのでございますから。まぁ難は難ですけれども、やはりおかげです。もうその事で、皆さん、大変、一生懸命、お祈り添えを頂いております。毎日、毎日、親先生、親先生というお届けが、もう、沢山その、お届けをされる。そして、皆さんが、お祈り添えをして下さる、という様な、お祈り添えのおかげもありましてから、こうして、おかげを、段々、まぁ頂きつつございます。皆さんに、お礼と同時に、報告を申させて頂きました訳でございますがね。その事を通してから、私だけではない、家族の者、そして、ご信者のみなさんまでが、信心になられるという事は有難いのである。糖尿病そのものが有難いのじゃない。だから、難あって喜べと仰ったからというて、仰るからというて、糖尿病に、そのものが有難いのじゃないのです。その事を通して、分からせて貰う事。または、それで、自分の周囲までが、信心になって行くという事が有難いのです。
 只今、お祭りを仕えるために、共励殿で参りまして、先生方が、私を、ぎりぎりまで座っておりましたから、待っておりました。待ちながら、文雄先生が、話しておるのです。久留米の初代の石橋先生は、山中鹿之助という豪傑が、昔おりましたですね。(あまこじおいおし?)その、大変なファンであったという話をしております。山中鹿之助さんも、講談なんかで、聞かれてから、ご承知でしょうけれども。若い時から、大変な大きな願いを持っておる訳ですね。ですからその、自分の力を、いよいよ、頂きたいために、我に七難八苦を与えたまえと言うて、その、三日月に祈ったという、あの武者絵がございますね。大変その、石橋先生は、山中鹿之助ファンであったと。どういうところがファンであったかは知らんけれども。そういう様な山中鹿之助の、潔い精神が、石橋先生の心に、やっぱり、感じられるところがあったのでございましょう。けれどもね、教祖の神様が仰る、難は御影と仰るのは、決してその、我に七難八苦を与えたまえという様なものではないという事。何時までも、糖尿病がようならにゃ良かが、というのではないのです。もう本当に、今度の糖尿病の事によってです。私が、非常に、その食べ物に卑しいんですよね。ですから、これを境に、私が、まぁ、幾らでも行儀が良くなるなら、行儀が良くなるだけではない、それによって、体が、いよいよ、健康のおかげを頂く事であろう。糖尿病というのは、かえって長生きをすると言われますよね。食物の頂き方に、非常に工夫いたしますからです。ですから、良くなっても、私が、この節度を守らせて貰うて、いやしい私から、いやしくない私に、改まらせて頂くという事は有難い。糖尿病を、何時までも持っておる。もっとひどい、糖尿病になりゃいいが。いよいよ、重体で起きられんごたる病気になら良いがというのであってはならない。けど、そこを間違えますと、大変な事になる。我に七難八苦を与えたまえ。これは、誰の歌か知らんけれども。ちょうど話し合いがあっておりましたからね。浮きことの何とかという歌がありましょうが。自分の上に、もう何ぼでも起きて来い。自分の力を試そうという様な、誰かが歌を歌った人がありますけれども。これは、何処までも、儒教的精神から生れたんですね、ものであって、宗教とは、全然違った考え方なんです。こういう考え方はいけません。こういう考え方は、いけない事を、教祖の神様は、はっきり、御教えの中にも教えて下さってありますですね。悪い事をいうて待つな、先を楽しめと仰る。だから、愚痴不足を言う事が、如何にいけないかという事が分かります。同時に、只今申します様に。我に七難八苦を与え給えなんていうような考え方は、こりゃもう、本当にいけないです。
けれども、自然の中に起きてくる、まぁ、難儀と呼べば難儀、それを、難儀ではない。心の目を持って開くと、それは神愛だと。それを、神愛だとして、合掌して受けていけれる元気な心だけは、これはもう、合楽にご縁を頂いておる、合楽の信者でございますというなら、ここのところだけはもう、本当に分かって頂きたい。これを、本当に、皆さんのものにして頂きたい。もうこれだけです、願う。まぁ私が、明けても暮れても言うことは、この事を、いうならば、手を変え品を変えして言うておるのでございます。我に七難八苦を与えたまえ。われから求めて苦労するというのではなくてです。与えられた苦労なら、神様が、自ずとの中にです、自分の周辺に起きてくる、様々な問題はです。どのような、例えば、それが問題であっても、それを神愛として、頂かせて頂こうという。ここだけはです、本気で一つ、皆さんが分からにゃいけません。ところが、なかなかぎこちない。なかなか、垢抜けしない。けれども、それが、段々、小さいことから大きい事。どのような場合でも、それが、すっきりと受けられる稽古をさせて頂くという事がです。これは、お道の信心でございます。おそらくは、これがね、一生続く事であろうと、私は思う。事柄は違う、問題は違う。問題は、どんどん、高度なものになってくる。私は、それを、本当にあの、思いまして、昨日、反省会のあった後に、十人余り残っておられました方達に、話したことでございましたけれども。
もう、二十年前の話でございます。私が、いよいよ、修行の真っ最中の時分でした。もう、初めの間は、もうそれこそ、大坪さんの信心といや、どこの教会でも、お説教の材料にならん事はないぐらいに、お説教の材料になりました。それは、一生懸命、お供えが出来たり、御用したり、お参りが一生懸命出来ておる時分でした。ところが、今度は、それとは反対に、私が、神様から、いろいろお知らせを頂くようになったら。もうあれはキツネツキだと言ったような風で、もう、いわゆる、みんなが白眼視する。みんなが、私を、傍にその、一部の方達は、その私の信心の、なるほど、ああいう信心すら、ああいう徳でも受けられる筈だという様に、分かって下さる方達は、みんなが一生懸命である。例えば、秋永先生とか、久保山先生あたりは、その当時から、私の支持者であった。北野の中村さん達も、やっぱそうであった。神様から頂く、そのお話が、もう大変な魅力であった。もう、限りなく出る御理解が、もう本当に、なるほど、こりゃ、大坪さんが話しござるとじゃない、神様の本当のお話だというて、皆さんが喜んで下さった。けれども、一部には、もう大変な、いわば、その何と申しましょうかね。いわゆる、難儀なんです。もう恥ずかしい思いも致しました。
ちょうど、御本部参拝、当時あの、鳥栖の駅から、みんな乗って、鳥栖で汽車を待ち合わせておる時でございました。鳥栖の、今はどうか知りませんけれども。前にはソテツが、大きなソテツが植わっていて。そこの前にこう、前庭というですかね。その、ちょっとした庭が出来ておりました。ちょうど、南向きに、コンクリで丸くしてね。私は、そこへ、日陰のところへ腰かけてから、時間のくるのを待っておった。ところがですね、段々、段々、今まで日陰であったところが、日向になって暑うなってきた。そしたら、神様がですね、そこから御理解を下さったですよ。人間は、何時もね、そう日陰ばっかりはない。日向ばっかりはない。日陰かと思えば、次にはまた、日が照る時が必ず来るのだ。この道理じゃと。今まで、日陰じゃったけれども、ここがもう、暑うなったろうがと。お前が、今、難儀を感じておる。どうしてこんなに、はずかしめを受けなければならんのだろうか。どうしてこんなに、恥ずかしい思いをしなければならんのだろうか。どうして今まで、あんなに、大坪さん、大坪さんと言うておった人達が、ああいう風な見方をしたり、言い方をしなければならんのであろうか。もう私は、その場におられなかったんですから、何時も。例えば、これは、親教会で、私はお話を頂きよりましても、とにかく、親教会のお広前の隅の方にもおられないような状態でしたですよ。ですから、もう私は、お参りをしないで、奥城に参って、奥城から、お祭りの雰囲気を拝んでおる程度。妹が代参して、お参りをしてくれたといったような時代もありました。もう、あげな信心な間違うとるという訳なんですよ。そん時に、神様からね、頂きました事がです。今、お前が信心の徳を受けたと言うても、信心のおかげを頂いたというても、お前が、まぁいうならば、このくらいな、イワシか鯖のように小さい魚だから、猫やら犬のような奴らが集まって来て。お前に爪をかけるようなもんじゃと仰った。なぶりものにされるんじゃと。さぁ、ここんところを、一つ辛抱させて頂いて、こういう大きな、あの鰤のようなおかげ、ぶりぶりする様なおかげを頂いてみれ。例えば、猫でも犬でも、下から、よだれ流して、ちゃんと見ておる外には仕方がないです。爪も立てきらんようになろうぞと言う、御理解を頂いたんです。はぁ、ほんにそうだ、自分が小さいからなんだ。自分が、信心が、まだ至らないからなんだ。いよいよ、信心の徳を身につけさせて頂いて、大きなおかげを頂かせて貰う以外にはないと思うて、おかげを頂きよったら、私の周辺に、人が集まるようになり、人が助かるようになってきた。それば、私、昨日、改めて、また思うたんです。ほんなら、現在、こうやっておかげを頂いておる。みんなが、本当に、まぁいうならば、びっくりするほどのおかげを頂いておる。言うなら、ぶりぶりするようなおかげを頂いておる。おそらく、九州には、昨日一昨日の、ああいう御大祭を仕えられるようなところは、まず、無いのじゃなかろうかと、私は思います。大きな教会は、幾らもありますけれども。内容がですね。と言うほどに、おかげを頂いておる。ところがです。ところが、それでもね、それでも、悪口を言う人がある、爪を立てる者がある。そこで、私が悟ったことは、ははぁ、まぁだ私は、イワシのようなもんだなぁということです。私が、どんなにもっと、ぶりぶりするようなおかげを頂いてもです。やっぱり、神様の目からご覧になりゃ、まぁだ、鯖の様なもんだということ。だからね、その事は、この事が、一生、おそらく続くだろう。そこんところを、教祖は、信心させて頂く者は、一生が修行じゃと仰っておられる。これはもう、同じですよ。けれども、その自分に、爪を立てられておったと言うてもです。立てられ方が違う。沢山の、私の支持者がある。私を、神様のように言うて下さる方達も、沢山出来てきた。中には、ところどころです。それがもう、歯痒うして、歯痒うしてたまらんと言うような人達があるだけの事。今日、私が、あの、玉串を上げましたのは、大祭に、私が、大体、上げる筈じゃったんです。ところが、上げられない様な事になった。おかしな話です。まぁ、その事だけではございませんけれども、もう、一事が万事に、合楽と聞いただけで腹ん立つごたる風。
今日も先程、長女が、今日は、典楽会でございました。それも、特別の典楽会がありまして、親教会から電話がかかってきた。初めの間は、家の、この頃舞を舞いました直子に、舞を舞わせてくれと言う事じゃった。その心算でおった。ところが、それを止められて、もっと大きな舞をなさる事になった。それで、新しい曲ですから、楽の稽古に行ってくれと言うことであったから。あちらの若奥様と豊美とが参りました。それで、福岡からも、先生方が見えておりますから。すぐ御挨拶に出てから、よろしくお願いしますと言うて、言うたら、その、言われる事がです。今度の善導寺の舞は、宮の陣と、どことかの方にして貰うから、ちょっと、まよこさん、あんた、若奥様の話です。で、して貰うとだから、もう豊美さん、あんたはせんでも良かと言わんばっかりに言われた。大体が、ぎりぎりする子じゃもんじゃから。それこそもう、ぐっと、それを堪えたち言う。もう今日の、こう腹の立って、もやもやする事はなかった。直ぐでん、帰ろうかち思うたけれども、とうとう、わざわざ、電話をかけてから、行って稽古をしてきた。三井教会で、ああして、月次祭たんべんに御用を頂いて、しかも、大祭といやです。今まで、おかげを頂いておったのにです。誰と誰と、他所の教会です、の人達に言うとるから。まよこさん、それだけ出ちゃるけん、親先生に、その事は、ちゃんと言うといてくれんのと言うて、何回も言われとる。初美さんも、その事を前に聞いとった。何遍でん言いなさることでん、豊美が来た途端に、それを、言わっしゃった。もう、合楽の者の顔を見たら、もう、それこそ、胸が、こう、もやもやしなさるごたる風です。それで、私も、それを聞かせて頂きましてからですね。その事はね、家あたりは、典楽会に、かたらんならかたらんでん良かて。今まで、椛目の時代から、それこそ、椛目だけで、曲がりなりにもやって来てるのだから。だから、その事は、まぁ、かたるかたらんは別として、親先生までにぐらいは、こういう雰囲気だと言うことをお届けしておけ。御大祭に、お前が今度は行ってから、お前が楽の御用を頂かん。よその信者さんが来てから頂く。都合で、親先生が、言いなさるなら、もう、三井教会の典楽会の楽員の事も、こちらから辞めるとは言わんばってん。そういう、いわば、もう面見るとも、面見苦しかごたるならば、そういう雰囲気があるんならば、辞めさせて頂くかどうか、親先生のお伺いをせろと。こっちから、辞めると言うことはならん、と私は、まぁ、言うたんです。そして、私、その、思うのですよね。それでもね、相手が、もやもやしよるけんでち言うてから、こっちまで、もやもやするなら、馬鹿らしかと私は思うたんです。相手が腹を立てておるとに、こっちまで腹を立てよるなら、こっちが馬鹿らしかと、こう私は思うた。皆さん、そういう風に思わにゃいかんですよ。相手が腹けぇとるなら、こっちも腹かくじゃ馬鹿らしか。信心しとる値打ちもなかです。
昨日、伊万里の竹内先生から、大変なひどいその、電話がかかってきた。奥さんはと、奥さんはここで御用しござった。今度の、今日の反省会には、お前から言うてくれ。もう、この次の御大祭には、絶対、親先生が祭主して貰わにゃ出来ん。そういう様な教会が、どこにあるか。教会長が祭主を仕えんと言うところが、どこにあるか。その事を、お前から、今日の反省会には言ってくれ、と言うて、その、電話がかかってきた。そしたら、また、そこに、事務所に、今も申します様に十人ばかり集まっておるところへ、こら本当に、今度は、竹内先生がやって見えたんですよ。そして、親先生、どうでも、教団で言う通り、全教一新、全教一家と言われる。全教一新するのは、もう合楽が、いの一番に立ちあがって、一新していかにゃいけませんよ。今の教団のようなあり方の、ああいう大祭じゃいかん。もしそれで、腹かいて、よその先生方が来なさらんなら、今まで通り、椛目の先生だけ、合楽の先生方だけで、ご大祭を奉仕して下さいと言われるんです。だから、そげんすりゃ、ほんに気分も良か。けれども、竹内先生、私は、本当に、そうですけれどもね。私はもう、何時も言う様に、私は、徳の亡者ですから。徳を受けられるためなら、私は、どげなこっでん、しようと思う。金の亡者が、金になるこつなら、どげなこっでんするのと同じこつ。どげな目にでも合うてみたいと思う。徳を受けられる事ならば、ね。ですから、その一言ですよ。竹内先生。おかげを頂くだけじゃない。気分良う、お祭りを仕えるだけじゃない。私は、あの時に、御大祭の時に、私が、御大祭の玉串が上げられん様になった。もう、祭主と一緒に、みんなが、願列してしまった。ですから、私の出る幕が無くなった。それで、私、直ぐ神様に、その事をお届けさせて頂いたら、頂きます事がね。こういうその、よう昔の田舎芝居なんかの引幕にね、熨斗が付いてますよね、こうした熨斗が。こういう様な熨斗が。中にこう括ってある。それを頂く。いわば、お付き合いで見えておられる先生方やらの事ですから、真心で仕えてくれと言う方が無理なんだ。上と下は、どげん、ばらっとなっとったっちゃかんまん、お前の心得、中心だけが、ぴちっとこう結ばっとりゃ、熨斗、神が受ける、必ず受ける。受けて貰わにゃ困るです。一月もかかってですね。一月じゃないけれども、言うならば、一月前あたりから、みんなが、それこそ、寝る時間も、食べる物も、いわば、始末倹約するようにして、御大祭のために、修行しておる。そして、あのような、いうならば、割れる様な、いわば、あの御大祭が奉仕された。あれだけの、一生懸命の御大祭が、たった、私が、これを乱したばっかりに、神様が、お受け下さらんと言うことになったら大変だと思う。だから、もう良いですよと言うて、私が、申しましたんです。
昨日、私の、親教会に、お礼に出らせて頂きました。もうそこの、いろんな雰囲気の中から、何から、まぁ色々、あれやらこれやら考え併せましてね。昨日、竹内先生が言うておられた事を思うて。豊美が、今、言うたこと。けれども、相手が腹かいてござる、相手がもやもやしてござるからと言うて、こっちまで、もやもやしたんじゃ馬鹿らしかと、私は思う。皆さん、思わにゃいかんですよ。馬鹿らしかです。相手が腹かくなら、こっちも腹かかにゃ損すると言うことは、絶対ないです。それじゃ、おかげを受けられんです。相手が腹かくなら、腹が痛かろうち言うぐらいな風に思わにゃいかんとです、こっちは。いっちょ、腹ばかき破りなさらんごたる風に、いっちょ、神様、お願いしますち言うごたる風でね。お願するゆとりがなからにゃいかんです。ぐうぐやって書きよるもんじゃけん、全然、もう、豊美が顔見た途端に、(?)しかもその、前に何べんでん、初美さんどんが行っとる時、いわっしゃった。本当にもう、おかげ頂き切らん人は違うと、私は思うです。けれども、可哀そうです。腹かき破りなさる、あげな風に行きよるのは違うんです、こうやって、ね。それでも、私は、昨日、竹内先生の事を思うてですね。こう私が思うた。本当に、例えば、こういう雰囲気の中にですね。もう本当に、例えば、他所の先生方でも、そげな事もなかろうけれども、ここへ来てから、コリを積む、腹が立つ、お供えはもう、だが見るかち言うごたる、こうしてある。(笑)皆さん、ご覧になった通りでしょうが。もう見ると損するごと思うて、こうしちょる。普通のとこは、こう、きょろきょろしよるごたる。お供えの時だけは、だが見るかち言うごたる。かえって、不浄が着かんで良いことは良い。(一同大笑い)人間ちゃ浅ましいですね、それでも。けれどもね、合楽で信心を頂いておる者は、先生ならずともです。もう、そこん事ばっかり、こうして言うてきよる。よそん人達は、それば知らっしゃらんとじゃ。口にゃむごう言うごたるばってん、自分自身が、擁護出来とらん。はぁ何でん、美味しゅう頂きますち。そればってん、ことになってくると、物事になってくると受け切らん。真っ青になって腹かく。てんでよございますじゃのうち言うて、こうこして帰らっしゃる。わっはっはは、ほんなごつですよ。本当に、可哀そうな事です。ですからち言うて、ほんならよかたいち、もう言うてから、こちらが腹かいたら、こちらが馬鹿らしい。だから、本当に、一つ、腹どんかき破りなさらんごたる風に、やっぱ、お願をせにゃいかんとです。本当にですね、こら、笑いごっじゃない、本当にそうですよ。ね。もう本当に、ここは頂かなければ値打ちはなかて。それでも、今言うようにです、私は、まぁ、金の五十万もかけりゃですね、もう立派なお装束が、十着ぐらい出来るから。家の先生方にも、本当に、御大祭には、やっぱり、装束つけにゃ、お祭りらしくなからにゃ一つ装束を着けて貰うて。そして、真似方でも、先生達がしなさる風な事なら出来るから、させて頂いて。本当に、そげん来て貰う、来て腹の立つごたる人達に、来て貰わんでも、内々でさせて頂いたら、皆さん方も喜ぶだろうなぁと、私が思うたんです。それで、だから、こう皆さんが言うて下さるのだから。神様に御神意を頂いて、御神意を頂いて、本当に、私も腹を決めようと思うたです。そして、まぁだ、一時間ばっかり早かったけれども、ご結界に着いたんです。ね。良いですか、豊美の話を聞いた時に、私は、そう。向こうが腹かいてござるとに、こっちまで腹かいちゃ馬鹿らしかですもんね。向こうがどうか言わっしゃった時に、こっちは、ぐうぐとなったんじゃですね。だから私は、豊美に、その時申しました。そげんとに、やっぱ、向こうが腹けーた時にはくさい、やっぱ、(白波取り)ぐらい投げちから、かなーしかごたる顔ばしときなさい。心じゃしれしれ笑よらええ。その事は余計、こちらがしろしろ笑いよるとですね、腹かかっしゃる、また。余計腹かきなさる。そるけんで、やっぱ、言われたけんで、ちったショックを感じたごたる風にこうして、風どくはしとくが良かばいち、私は、まぁ言うたこっですがね。こん奴ばっかりは、幾ら言うたっちゃ、しっぽりマークしとるち言うちから、また、余計腹かかしたんじゃ、返っていきませんもんね。ですからね、本当に、その辺ばですね。もう本当に、合楽の御神縁を頂いておる人は、ここを頂かなければ、合楽に来る値打ちはなかて。相手が冷たいなら、こちらが、温かくいけばいい。それが解けるぐらいに。あっちが腹立ててござるなら、こっちが、柔らかい心で行きゃ良い。そこんところをです。私が、馬鹿になっときゃ良かけんで、ぐうぐう言うて、堪えとっただけじゃいかん。はぁ、これで、また徳が受けられるというごたる気持ちでいけち言う訳です。それでも、ここのあり方がです。そういう風に変わると言うことの、いわば、神様の御神意御都合かも知れんと思うて、私はここへ座った。そして、神様に、その事をお願いさせて頂いてから、何時ものように、教典を開かせて頂いた。
そしたらね、こう教えて下さるんですよ。御理解、第四十五節にね。「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間と」まぁいうところですね。ここまでのところ、長いですけれど、ここの、三宝様と言うところ、次々出てくる、このここをですね、それがね、それが宝、三宝は、宝様と書いてある。三宝様。それが宝様ぞと神様が教えて下さる。例えば、もう本当に、辛い、恥ずかしい、歯痒い、情けない。いうなら、理不尽に、例えば、言われたり、されたりする様な事。それを合唱して受ける。その事が、三宝様ぞ。宝様ぞと。それを二つ並んだところを、二つ続けて頂く。それが宝様、それが宝様だとこういうこと。三宝様を踏むと、次に頂く事がね、その宝様を踏むと、宝様を粗末にすると、ね。宝様を粗末にすると目がつぶれるぞと神様は仰るです。どういうことになりますか。皆さんが、ようやく、心の目を開いて行きよるでしょう。そういうことを粗末にして、そういうことを踏みつける様な事、他へ持って行きよるようなお粗末な事をすると。せっかく、心の目が開きよる。肉眼をおいて心眼を開かせて頂いて頂いておる、その心眼が鈍ってくる。そして心眼がつぶれるぞ。もう本当に、いうならば、身の毛のよだつようなお話なんです。もし、心の目を開いておると、人から見たらばですよ。私が、ほんなら、心の目を開いておるとするならばです。私は、本当に、はぁ、三宝様を踏むと目がつぶれる。宝様を踏むと目がつぶれる。頂いておるお徳は、もうどこへか消えて行く。日頃信心して頂いておる、信心の徳と言うものは、もうそれで、無くなってしまうという意味なんです。三宝様を踏むと目がつぶれると書いてある。宝様を踏むと目がつぶれると書いてある。ここんところを、三とこ頂くんです。宝様宝様、お互いが、そういう風に思うてですね。如何に、宝のような宝様をですね。おかげの元をです、どの位、私共は、踏みにじったり、お粗末にしたりしておるか分からんと言うことを、日常生活の中に感じますですね。
こらぁまだ、家の先生方に装束作るとは、まだ早かなと、だから、私が思いました。そして、ちょうど、豊美と初見さんが、琴の調子を合わせよりましたから、ちょいと、ここさん来いと言うて、今日、あんたどんが行ってから、久留米で感じてきた事。私も、聞いた時には、やはり、かーっとするような事はなかったけれどもです。もう危ないこっで、向こうが腹かいたら、こっちまで腹かこうとするけれども。こっちが腹かいたんじゃ馬鹿らしかとこう思うた。皆さん、ここまで頂かにゃいかんですばい。そこで、腹かく事がね、宝様を踏みつける事になるとですよ。日頃、頂いておる信心が、いわば、流れてしまう訳になる。そうでしょうがね。もうこりゃね、よそは知らん、けれども、合楽にご神縁を頂いておる人はです。もう本当に、こげな時に、腹どん立てちゃならんです。不足どん言うちゃならんです。いわば、難儀を感ずる時です、糖尿なら糖尿、難儀を感ずる時です。それを、難儀と思うちゃならん。どうして、私が、こげな病気をせなんじゃろうかと。どうして、私だけが、こげな不幸じゃろうかということはです。なおまた、不幸を呼ぶようなもの。この方の道は、喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと仰るのだから。そこを、喜びで受けさせて頂けれる、本当の訳柄を、ここでは話しておる訳なんです。それは、悔やむこっじゃない。それは、腹を立てるこっじゃない。本当言うたら、今日の御理解を言うたら、それが宝様ぞということを、日頃、頂いておる訳なんです。ね。
今朝は、特に、あの御理解が大切。この、人間関係の事についてから。家族が仲ようする。信心は、家庭に不和のな気が元と言うことを頂いたが、それにはね、いわば、つかず離れずということが大事だということを頂いた。あまり、くいとんのごとなっとると、かえっていかん。だから、つかず離れずの中にです、お互いが、信じあえれるものになった時に、初めて、言うて言わんなん交流する。何かが、例えばあっても、腹の立つような問題があっても、腹の立たんで済むようなおかげになるところまではです。着かず離れずの生き方が良いといった様な事を頂きましたが。一番、やはり難しいのは、何というても人間関係。その人間関係の、私は、おかげを頂かせて頂くために、しかも、おかげではない。その人間関係の、わずらわしい、難しい問題を、あればある程に、それをお徳にして行く。宝様に頂く、そして、頂かせて頂くということをですね。お互いが、頂かせて頂いたら、と言うてです。私共は、いわゆる、七難八苦をわれに与え給えと言った様なことは祈りもせん、思いもせん。そら、よかれがしと思うから、地を低うして、やはり、行く訳なんです。それで、なおかつ、起きてくる問題ならばです。これは、合掌して受けなければいけない。もう私は、本当に今日は、繰り返し、そこんところを、皆さんに分かって頂きたい。合楽におかげを頂いておる者はです。もう、ここんところを、そうだと、一つ、分からせて貰わにゃいかん。けども、それが、自分のものになるためには、なかなか難しい。それが、すっきりとです。がーんとやられた時にです。やっぱり、っとこう血が上るような思いがする。
この頃、大祭の時の、私が玉串を上げる段になって、玉串を上げられなかった。あの久富先生が、日田の山奥までも行って、一日がかりで、あの玉串を取って来なさった。そして、私のために、あの玉串が出来ておった。しかもあれは、親先生が作ってやりなさった。親先生もご承知なんだ。これは、私の玉串と言うことは。それが、その玉串が上がらじゃったので、それまでは、あの大祭が有難うして有難うして応えじゃった。ところがもう、玉串ば上げられんけん、こん畜生がち思うたもんだけん、もう、カーッと頭に来てから、ほんなごて、あの禿げ頭が赤うなるぐらいに、血がこう上がってしもうた。やっぱ、そのくらいにありますよ、あーた、ほんの一日がかりで、玉串ば取って来てから、しとるとじゃけん。こりゃもう、先生の実感じゃった。けれども、その後にです、けれども、親先生は、これを、どう受けなさるじゃろうかと思うたらね。その上がっとる血が下がって。神様有難うございますというて、お礼を言うたち言うておられます。知らん者は、何もなか。あれが、立派なお祭りが出来たごとある。けれども、教会長の私が玉串をあげんち言うこつが、ある筈がなか、大体言うと。ね、そうでしょうが。けれども、神様も形じゃないて。さぁ、こういう時には、上がこう、下がこう乱れておっても。中の中心の、ここさえが、締っておりゃ、神が熨斗付けてから、お供えするようにして、物をです、やはり、受納して下さる。喜んで受けて下さる。そういう意味でですね、おかげは、こうして段々、ぶりぶりするようなおかげを頂いてきても、神様の目からご覧になりゃ、まぁだ、この位のおかげは、イワシか鯖かぐらいしか、神様は思うちゃござらん。さぁ、もっと大きゅうなれ、もっと大きゅうなれ。いよいよ、それこそ、いよいよち言うたっちゃ、お釈迦様のこっでん、悪う言う奴は、悪う言うとじゃけんでですね。本当ですよ。ほら、あの時分に、日本一と言いよった、甘木の初代の親先生の事を、もう久留米地区のもんな、もうてんでもう、人非人の様に言うたですよ、先生方が。自分方の地盤が荒さるるち言うてから。日本一の先生を、そげん言うた、教団人が、近所の教会です。だから、私どんは、甘木には参っちゃならんもんのごと、教え込まれとったから思うとったです。もう、あげな態度の先生がござるところに、どうして、お参りが出来じゃったじゃろうかと、自分で思うです。久留米関係、甘木関係は、もう甘木には、お参りするとは敵のとこに行くごたる感じで、私共は教え込まれとったです。妙な話、考えて見りゃ。日本一の先生ですら、あーして、やっぱり、死なれる時分まで、悪う言う奴は、悪う言うとじゃけん。私が、お釈迦様のごとなったところで、もう、悪う言う奴はしようがなか。と、私は、思うてはいますけれどもね。本当です。私は、何処までも、生神様を目指して頂こうと思うのです、本当に。ですからね、もっともっと、ぶりぶりした、神様の目からご覧になりゃ、こういう素晴らしい、例えば、私共がおかげと思うておるおかげでも、神様の目からご覧になりゃ、まぁだまぁだ。まぁだ、イワシか鯖のようにしか、ご覧になっていない。しかし、そういう意味合いでならばです。恐らく、やはり、一生が修行であろうと、私は思うのです。そこでです、そういうような事は、皆さん分かった。分かってから、そういう時に、そういう事をです、あっさり、スキッと、有難く受けさせて貰えるために、本気で信心修行ば、しとらなければ、頂けるこっじゃないて。
そこに、常日頃の信心修行が、どうしても大事になってくるんですよ。豊美がここで、さっきは、その事を、初美さん、あんたどんがね、もう、どこでも、楽員さんと言うたらですね。もう、どこの楽員さんでも、たかぶっとる。もう、先生の次、信者と先生の中間的な扱いを受ける訳なんです。だから、その楽人さんから、皆さんを見るともう、信者さん方よりも、自分の方が、信心が出来とるごたる風に思う訳なんですね、きっと。だから、楽員さんで、おかげ受け取るもんがなかち言われるくらいに、他所ではそげんです。だから、合楽の楽員だけは、そうじゃない。ね。
昨日の御理解の中にも頂いたように、役徳と仰る。それぞれの役、下駄預かりをするなら下駄預かりをする、その本当に、真心をこめて下駄預かりの御用を頂かせて貰う。炊事をさせて頂く者は、本気で炊事の御用をさせて貰う。客殿に居る人達は、客殿の本当の御用をさせて貰う。便所お掃除する人達は、本気で便所を、一生懸命お掃除させて貰う。私どんだけが便所掃除せにゃならん。あの人達は、良か着物どん来てから、客殿に、ちゃんと座ってからてん何てんち、言う様な思い方をしたんじゃ馬鹿らしか。ね。それじゃその、役徳にならんと仰る。徳はこの徳です。ですから、楽員なら楽員と言う、そういうお取り立てを頂いておるのだから。楽員としての徳を受けなければならん。楽員としての役徳を受けなければならん。豊美さん、初美さん、しっかり、あんただん、そこんところが、欠けておる。初美さんでも豊美でも。だから、ここんところを、例えば、久留米にお稽古に行くたんべんに、どげん、いうならば、普通で言うなら、辛う当たられても、汚う当たられてもです。そこを心の中で、しれしれ受けてくるごたるおかげを頂いたならば、家庭に帰ってでも、それが、この生き方でさえ行きゃええと言う事になってくるのです。いうならば、良か稽古場なんだ。初美さん、あなたも明日から、朝の御祈念に参って来なさい。豊美が、そういう風に申しよりました。そら、楽の御用でん頂いときゃ、それで良いというような事じゃいかん。合楽の楽員は、そげなこっじゃ出来ん。徳を持った信心が出来た人が、楽の御用を頂かせて貰うというぐらいなおかげを頂かにゃ出来んというて、まぁ、私は、申しました事でございますけれども。楽員だけじゃない。合楽にご縁を頂いておる人は、全て、みんな。ここのところだけは、一つ分からせて頂いて。段階はありますよ。私の信心でも、神様は、まぁだ、イワシぐらいに思うておられるとじゃ、ね。いうならば。だから、そこんところはです。段階は、いろいろ、ありましょうけれどもです。こういうものだという事を、本気に分からせて貰うて。それに、そういう風に取り組ませて頂くという事は、私は、その役徳と言うか、お徳を受けさせて貰う、一番、大切な事じゃなかろうかという風に、私は思うのです。どうでも一つ、おかげを頂きましてですね。こりゃまぁ、人間関係の事を、今日は申しましたがです。そういう時には、皆さんがですね。どういう風に、家庭の中に問題があっても、それをね、相手が腹かいてござるけんでち言うて、こっちまで、腹かきよったんじゃ馬鹿らしかと言うぐらいのところまでは、いっちょ、早う分からせて貰うてですね。そしてそれを、有難く受けさせて頂いて。相手が、どうぞ、腹どんかきよらっしゃらんごたる風に、お願するゆとりのあるね、信心を頂いて頂きたい。もう、合楽では、この事ばかりですから。ここんところを、本気で一つ、銘々のものにしていかなければならんと、私は思うのでございます。どうぞ。